『教育とは、すべて忘れたあとに残るもの』フリースクール卒業によせて
3月に入り、めまぐるしく時間が過ぎていっています。
息子氏の中学校では、卒業式が延期になり
すでに3年生はお休みに入っているものの
式はこれから… という宙ぶらりんの状態。
ひと足先に、今日はフリースクールの卒業式でした。
多いときは週に3回通所。
(通学ではなく、通所というんですね~)
行かない週はまったくいかなかったけど、
息子氏にとっては、気の合う友人と会って話せる
安心の場でした。
大声で、休み時間しゃべったり
ゲームしたりしていたそうです。
利用はじめは、確か2年生のはじめ。
最初は通所ではなく
自宅パソコンで学習する「IT学習」の利用から始めました。
(パソコンで問題を解いて、先生とやりとりする)
県立のフリースクールなので、
通所した日はもちろんですが、
自宅で、IT学習システムにログインした日も
地区の学校に「通学・出席」したとしてカウントされます。
その精神的安堵感といったら!
まさに「救い~」と感じていました。
毎日とまではいかなかったのですが
ほんとうに、ちょっぴりずつ勉強して
「ゼロではない感」を得ていました、親子とも。
2年の冬くらいからは、友人もできたこともあり
実際に通う日数が増えていきました。
何時間目からでも
好きなコマだけでもいいよというのも
負担が軽かったのでしょう。
お弁当持参で
だいたい2コマ目から、午後の1コマまで
一斉授業に出たりして過ごし
「自分ひとりでは絶対やらないようなこと」が
経験できたのが面白かったと言っていました。
(ギター、ドローン、ホームデザイン、ソーシャルスキルトレーニングなど)
息子にとっては
各教科の学習内容というより
「いろんな人がいる」
「自分にも、相手にも、いろんな気持ちがある」
「それをただ見守る大人がいる」
そんな形のない、本質的なことが
この数年の学びだったのではと思います。
フリースクールに通うきっかけは
「苦しさ」からでしたが
その先に、ちょっとあたたかい色の
つながりや、学びも用意されていたんですね。
タイトルに書いた
『教育とは、すべて忘れたあとに残るもの』
これはアインシュタインの言葉です。
わたしは教員養成の学部で6年間学び
いちどは教員採用試験も受けましたが
24歳のときにこの言葉に出会い
直感というか衝撃というか
いたく、いたく、腑に落ちたことを覚えています。
社会科の教科教育専修でしたが
「教科」を教えることとは? という問いに、
自分なりの答えが見つけられないのに
教員になるのか?という
モヤモヤがあのころあったのです。
そこにきて、アインシュタインの言葉は
やはり知識じゃないんだと思えました。
「やるなら現場ではなく、わたしは
それ以外の場での、後方支援がいいな」
そうはっきりと決断できたのでした。
(結局就職し、教育分野とは関係のないような
ライター業をしていますが… 今も関心は高いです)
そして子育てのステージに入ってからも
ずっとこの言葉は胸にあり、
心のよりどころにしてきたように思います。
知識はいつか抜け落ちることがあるけど
「残るもの」が、その子にとっての本質なのだとしたら。
ちょっとくらい
勉強できなくても、通えなくても
そこにしがみつかなくてもいいかなと。
勉強する、学校に行く意味ってなんなのか?
楽しさがわからない
そんな問いが残ったとしても
それはそれで、人生の命題なのかもしれないし。
もしかしたらそれが仕事の仕方を
考えるきっかけになるかもしれないと。
わりと、どっしり構えていられました。
娘のときから通算して
フリースクールには
5年近くお世話になりましたが
携わってくれた方へは、感謝の思いでいっぱいです。
わたしにとっても大きな学びでした。
ページをめくって、
新章へと進むようなふうには
まだ気持ちがおいつきません。
あの時間と空間から
ほんとうに卒業なんだなぁと、
しみじみ味わいつつ、
ゆっくり次に向かっていきたいと思います。