「あのとき休まなかったら壊れていたかもしれない」
もう2か月も前ですが、トーキョーコーヒー秋田さんの活動の場にお呼びいただいて、「おはなし会」をさせていただきました。
「トーキョーコーヒー」さんは、不登校の子どもやそれを見守る人の居場所をつくるプロジェクト。
不登校の子どもだけでなく、大人だけでも参加OK。
学校に行かない子どもがいなくても参加できる、安心して過ごすことができる「場」です。
トーキョーコーヒーとは、いわずもがな「登校拒否」をもじった名称。
奈良県から活動が広がったそうで、全国に拠点が250近くあるそう。
秋田県内では秋田市と由利本荘市の2つに拠点があります(2023年5月現在)。
今後も、増えてくるんじゃないかな?という予感…
10年くらい前だと、「不登校」といえばもっと暗い、外に出てはいけないんじゃないか、みたいなイメージがまだつきまとっていたように思うのですが…
いまは「学校に行かない時間も、誰かとつながりあいながら有意義に過ごそう、学ぼう」という前向きな動きがたくさん出てきていて、明るさを感じます。
この10年くらいで、価値観も教育へのまなざしも、多様になってきた(やっと!)のかも。
不登校には、ひとりひとりほんとうに、じつにさまざまな背景があるので、ただただ無責任に「行きなさい」とはとても言えません。
社会のおおらかさ、理解が広がってくれるといいなと思います(しかもポップにね)。
さて、その「おはなし会」ですが、どんなことを話したかというと。
うちの子どもたち(2人とも不登校経験者)の、赤ちゃん期~高校までの年表をたどりながら、身体面、メンタル面、学習面、生活面について、どんなことに直面しながら育ってきたのかを、親目線でたどってみたのでした。
年表を紙1枚にまとめるなかで、その時々の思いを追体験したりして。
わたしもいろいろなアプローチをしてきたよなぁ、とか、この時期修羅場だったなぁ(笑)とか。
必死で、孤独で。
でも、親子ともども、経験値は爆上がりしたよねとも思います。
で、ふと親目線の話もいいけど、不登校を卒業した子どもたちからの思いや言葉もあれば、シェアしたいなと思いつき…
なにげなく2人に話を聞いてみたら、わたしの話は不要なんじゃないかというほどの含蓄のある御言葉が返ってきたのでした。
上の子
「中学校までは“まわりはみんな敵”と思っている子も多いし、自分もそうだった。
高校に上がったあたりから自由度が出てきて、親への感謝が出てくるので、もう少しだけ見守っていてあげてください。
それとバイトはした方がいいし、ネットには適度な距離で入り浸りすぎないこと(自分に合った界隈を見つける)をおすすめします」
下の子
「俺はいじめとかが原因ではないから、そこの気持ちは全部はわからない。
疲れきっちゃって学校行かなくなったけど、不登校になるってことはなんらかの理由があるということだから、いまはしっかり休んで、好きなこと見つけて元気になってください!」
そうかぁ… そうだったのかぁ…
母はあらためて気づくこともあり、いまこうして書いていても涙が出そうになるくらいですが、学校に行かなかったけれど、なんの心配がありましょうか。
(ただ、最中はそうは思えないのよね)
確かにいろんな「機会」は減ります。
だけど、やさしさとか、思いやりとか、感情の幅は大人が思うよりも、はるかに深く豊かに育っているし、自分よりレベル高っ!と感じます。
なにより、他人のことを批判したり、見下すということはない人たち。
育てられたのは、間違いなく親のわたしのほうですね。
上の子がこうも言ってました。
「あのとき休ませてもらえなかったら、壊れていたかもしれない」。
壊れる、ってどういうことなのか。
体調なのかメンタルなのか、親子の関係なのか、生きることそのものなのか。
自分で自分を傷つけたり、生を終えてしまおうという心境に向かってしまうこともあります。
(それを聞いて、少し怖さが走りました)
一生学校で過ごすわけではないし、スクールカウンセラーの先生にも「義務教育はいやでも卒業します」と言われました。
「学校に行かない」は第一のドアにすぎなくて、なんらかの(発達特性や気質、家庭事情、性の違和感などなど)二次的な現象のことも多いです。
まずは親子ともご機嫌に明るい気持ちで過ごすこと。
これが一番精神の安定にも良いです(神経の協働調整といいます)。
不登校の期間は、ゴール設定を「子どもや自分の特性・価値観と建設的に向き合う」こと、「この先どうやったら生きやすくなるのかを研究すること」に置いて過ごせたらと思います。
不登校のゴールは必ずしも登校ではありません。