わたしが戦わなければならなかったもの。

ユニークな子どもの子育て。
この18年近くの中で、いろんなものと直面してきたけれど。
一番わたしが戦わなければならなかったもの。
それは、自分自身の「価値観」でした。
学校にはいかなければならない。
きちんとしなければならない。
食べないといけない。
早寝早起きしなければならない。
休んではならない。
遅れてもならない。
健康でいなければならない。
多少具合悪くても、いやなことでも、がんばらなければならない。
テストは100点めざすもの。
泣いてはいけない。
甘えてはいけない。
怒りや文句をあらわにぶつけてはならない。
… がんじがらめ、ですよね。
漢字で書くと「雁字搦め」。
もっとヤバみが増す(笑)
これは、わたしが子どもたちに巻き付けていこうとした価値観でした。
それをひとつひとつ検証しながら、疑ったり、ひっくり返したり、ぶっ壊す、という作業をして、はじめて少しラクになってきたのでした。
同時にこれは、わたしをぐるぐるまきにしていたもの。
ただ、この価値観や生活習慣は、わたしがこの世で生きやすいように、親やまわり、時代が着せてくれたものでもあり、たぶん悪ではないのです。
これまで生きてきた日々の中で、自分で選び取ったものも入っていると思います。
(とくに最後の3つは)
いまもこの価値観を着て、大概のことはこなしているし、「社会に対応する」とはこういう側面をはらんでいるということなんだと思います。
だけど、子どもは、まったく違う個性や特性をもっています。
わたしのお腹を借りて、この世に生まれた「他者」。
同じ価値観を着せるには、サイズ感も時代感も合わない、きつい箇所がいくつもいくつもあるのですよね。
子育ては、自分の育ち方をなぞることではない。
そのことに、しばらく思い至らず。
ああ、ただただ想像力がなく、わたしは未熟だったなと思います。
学校やまわりの家庭の常識、社会通念。
そういう「型」と戦う必要もあったけれど、何よりも自分の中にあるものが障壁だった。
子どもたちにとって、わたし自身が一番の障壁、脅威になっていたのかと気づいたときは
(しかも愛情という姿でせまってくるからタチが悪い)絶望に近い感情を味わいました。
いまのわたしは、この価値観を「脱ぐ、着る」をもう少し上手にしながら、子どもとも、まわりとも向き合うことができるようになってきたんじゃないかなと思います。
どうしてその価値観を着るのか、着ないのかを、相手によって説明できるようになったし、カーディガンで温度調節をするように、着替えられる「素早さ」は増したように思います。
(頭のいいHSPちゃんは、このへん素でできちゃうのかもしれない)
言葉は悪いですけど、二枚舌というか、「価値観のチャンネル切り替え」という新しい武器(それも価値観か)を手に入れたのかもしれません。
明橋大二先生の著書
『教えて、明橋先生! 何かほかの子と違う? HSCの育て方Q&A』
この表紙カバーの扉には「普通じゃない親になる覚悟を決めてください」と、書かれています。
それを目にするたび、すごく肌にせまってきて、今日書いたような思いがわきあがり、静かな闘志と、深いところから涙が出てきます。